語彙には個性がある?

言葉には個人差があっていい?

確かに一人一人の性格や、立場に違いのによって使う言葉は違ってくると思う

 

2つの語彙の印象の違い

 

どうしても 自分本位な言い方 謙虚ではない 強制力がややある

折り入って 改めて 丁寧で真摯な言い方 謙虚ならこちら

 

できませんと荷が重い役割です

できません やる気がない ネガティブで真剣ではない印象

荷が重い役割です 残念ながら残念ながら答えることができない 経験不足を訴えられる {大役すぎる}という言い方もできる 謙虚な言い方

 

わけもわからず と 窮余の一策

わけも分からず 適当でその場しのぎ 不誠実さがやや残るやや残る

窮余の一策 すごく真摯に考えたが、困った挙句思いついたこと 誠実さがある表現だが、かなり立場が上の人向けの言葉

 

参考までに と 後学のために

 

参考までに その内容を「役立てようという」ニュアンスが無い やや自分本位 部下が多い人向けの言葉

後学のために 相手から学ぶ姿勢を示す 誠実な印象を持たせられる 部下が少ない人向けの言葉

 

びっくりです と 奇遇です

びっくりです ただ状況に驚いているだけで 相手との関係を大切にし切れていない

奇遇です 「何かの縁で出会えた」という 相手との関係を肯定的にとらえられる言葉 相手と出会えたことに喜びを見出す印象を持つ

 

 

 

夢を追いかけたい時がいつか来る。

夢があるのかないのか分からず、ただ漠然と前に進みたいという気持ち一つでイオンなことに挑戦してみた。毎日の走り込みや筋トレから始まり、料理を覚えたり、図書館から様々なジャンルの本を借りてきて読みまくったときもあった。

 

就職するまでに長い時間がかかった。最初に就職したところは自分の適性に合わず、5か月ほど勤めるも心身に限界がきて休みがちになったらクビを宣告され、そこからまた職を探し続けるも、体験の段階で限界が来たり、一次審査で落とされたりと、全く職に付けそうもなかった。ある日たまたま見つけたフェアで今のホームセンターのバックルームの仕事に応募し、何とか採用される。

 

仕事をしながら、自分のやりたいこと目指したい成長を探し続ける。高校認定の資格を取っていたので、専門学校や通信制の大学へ進学することも視野に入れて、本を読んだり、支援センターの人に相談したりを繰り返し続けた。

見つからない時間に焦りを感じ、鬱に近い症状にも悩みながらも考え続け、調べ続けた。何ができるのか何が得意なのか自己啓発の本を読み老けたこともたくさんあり、体が資本だということで、健康に良いものを食べ始め、食べ方を工夫するようになり、感触を止めるように徹底してみた。

 

 

今年の6月にオンラインのスクールである一人の人物を知り、自らの消えない劣等感が役に立つかもしれないという希望をもらう。その人と同じく生きづらさを抱えている人が生きやすくなる社会を作る活動をしていこうと思った。

自分の劣等感、発達障害を持っていること、不登校になったこと、就職までに時間がかかったことなどもプラスに変えてあこがれの人に近づくと決めた。

決断するとできることや捨てられなかったことが捨てられたことが増えて、今までやったことがないことにも積極的にチャレンジができるようになった。

変えていく中でこれでよいのか、ふと考えることもあるけど、昔の自分より今の自分のほうが好きだと思う。

変えることが怖くはないむしろ積極的に変えられることをやっていきたいというやる気に満ち溢れている。夢を追いかけたくなる時が来たのだと思った。

思うのは、生まれや今までの人生が原因で変わりたいのに変わるのを躊躇してしまう人たちに、変えていくことの価値を訴えていきたい、変わらぬことを人間は誰でも望む本能を持っており、変わらぬことを誰しも探している。

夢を見つけても動き出せない人がどれくらいいるのかは正直分からない、自分を夢をどこまで終えれるのかまだ全然わからない、まだ始まったばかりだからだ。

けれど、守りを乗り越えた先にあるものを見てみたいもっと世界を広げたいという思いは確かだと思う、どこまでいけるかわからないからこそ進んでいきたいと思っています。

幸福を感じた時 ~ASD当事者の一人の価値観~

 

幸福とは何か? おそらく多くの人が、一度は考えたりすること。

 

様々な人が、様々な幸福論を語り、勧めている。

 

簡単にできるように見えることもあれば、難しいこと、意外なこと、よくわからないこと、いろいろありすぎるし覚えるのに疲れてしまう。

 

自分にとっての幸福とは何かと自分もよく考える、最近一つ分かった、というより感じたことがある。

 

それは、幸福は理屈や正解ではなく、感覚なのだと。 感覚だからこそ人それぞれなのだと。

 

自分はASD故なのか、他の人とずれた感覚を持っているよう感覚を感じる。

言い訳ぽくなるが、感覚が多数の人とずれているのは多数決や効率が基準となる社会ではとても生きづらい、不器用すぎる感覚は効率的にはなれず、繊細な精度を実現するのも難しい。多数の人が時間をかければ成長できることも成長がほとんどできていない。

成長が難しいというのは社会に役に立てる可能性や認められることもほぼ無いと言われても仕方のないかもしれないと思う。

 

けれども、自分にも確実にできることは有った、それが幸福を感じる感覚を信じぬくことだ。どんな感覚の持ち主でも、幸福の感覚はあるはずだと思う。そして、幸福の感覚こそ変わらない希望だと思う。

 

世の中は変わってしまう、理屈も正解も技術も変わる。一年前の正解や常識が今や非常識になっている、そんなことだってよく起きる。

 

だから自分の好きにやればよいという意見は多い。

 

けれども、好きがわからない人、好きでは苦しみに耐えられない人、そもそも、人間一人一人はどれだけ共通点や類似点を見つけられたとしても、様々な違いが必ずある。

生まれといった環境、出会いやタイミングといった運、どう見るかで変わってしまうことばかりだし、自分の現在、考えていることも、変わらない保証もない。

 

けれど、自分の幸福の感覚を否定はしないでほしい。どんな理屈や正解を持っても人が感じた幸福を否定しないでほしい。感じた幸福はどんな形があれ、肯定されるべきだと思う。感覚に正しさや良し悪しは無い、だから自分の感覚を信じて、他人の感覚を認めることが大事である。これだけは変わらぬように残していきたいと思っている。

 

 

空間認知能力が自分は低いと感じる。

よくもにぶつかることやうまく体が動かせないことが多い

また、視覚による理解や分析も得意ではない。

あまりアーティスト向きな人間ではないかもしれない。

そんなADHDの人間も他にもいるのだろうか?

もしいるなら会ってみたい。

どんな生活をしているのか知りたい。

自分はwebライターに興味を持ちブログをはじめました。

記事を書くことに関心を持ち自分にもできないかなぁと思っています。

 あと人の気持ちを傾聴することにも今、関心を持ています。