幸福を感じた時 ~ASD当事者の一人の価値観~

 

幸福とは何か? おそらく多くの人が、一度は考えたりすること。

 

様々な人が、様々な幸福論を語り、勧めている。

 

簡単にできるように見えることもあれば、難しいこと、意外なこと、よくわからないこと、いろいろありすぎるし覚えるのに疲れてしまう。

 

自分にとっての幸福とは何かと自分もよく考える、最近一つ分かった、というより感じたことがある。

 

それは、幸福は理屈や正解ではなく、感覚なのだと。 感覚だからこそ人それぞれなのだと。

 

自分はASD故なのか、他の人とずれた感覚を持っているよう感覚を感じる。

言い訳ぽくなるが、感覚が多数の人とずれているのは多数決や効率が基準となる社会ではとても生きづらい、不器用すぎる感覚は効率的にはなれず、繊細な精度を実現するのも難しい。多数の人が時間をかければ成長できることも成長がほとんどできていない。

成長が難しいというのは社会に役に立てる可能性や認められることもほぼ無いと言われても仕方のないかもしれないと思う。

 

けれども、自分にも確実にできることは有った、それが幸福を感じる感覚を信じぬくことだ。どんな感覚の持ち主でも、幸福の感覚はあるはずだと思う。そして、幸福の感覚こそ変わらない希望だと思う。

 

世の中は変わってしまう、理屈も正解も技術も変わる。一年前の正解や常識が今や非常識になっている、そんなことだってよく起きる。

 

だから自分の好きにやればよいという意見は多い。

 

けれども、好きがわからない人、好きでは苦しみに耐えられない人、そもそも、人間一人一人はどれだけ共通点や類似点を見つけられたとしても、様々な違いが必ずある。

生まれといった環境、出会いやタイミングといった運、どう見るかで変わってしまうことばかりだし、自分の現在、考えていることも、変わらない保証もない。

 

けれど、自分の幸福の感覚を否定はしないでほしい。どんな理屈や正解を持っても人が感じた幸福を否定しないでほしい。感じた幸福はどんな形があれ、肯定されるべきだと思う。感覚に正しさや良し悪しは無い、だから自分の感覚を信じて、他人の感覚を認めることが大事である。これだけは変わらぬように残していきたいと思っている。